八幡社の御由緒
八幡社は,臼井氏中興の祖・臼井興胤(うすいおきたね/幼名竹若丸・初名行胤/1312~1364)が、暦応(りゃくおう)元年(1338)八月十五日、臼井領内に印旛・葛飾二郡百十四か村の総鎮守として創建した社、と伝えられている。
正和三年(1314)秋、父祐胤を二十五歳の若さで亡くし、興胤は三歳にしておじ志津二郎胤氏の後見のもと家督を継いだ。しかし、野心を抱いた胤氏が臼井の簒奪(さんだつ)を企み、興胤は殺害されそうになったが、忠臣、岩戸城主・岩戸五郎胤安と乳母の阿辰(阿多津)に救出され、鎌倉の巨福山建長寺へ逃れ、仏国国師・仏真禅師に庇護愛育された。長じて、足利尊氏麾下(きか)の武将となり尊氏に従って各地を転戦し、延元元年(1336)二月、筑前・多々羅浜で菊池武敏の軍勢と戦ったとき、宇佐八幡・太宰府天満宮の両社に戦勝を祈願して、抜群の戦功を挙げることができた。その功により、興胤は、尊氏より臼井の本領を安堵(あんど)され、二十数年ぶりに帰国し、城主に復帰することができたので、神霊の加護に報い城内に宇佐八幡を勧請(かんじょう)し、八幡山満蔵寺(天保年間廃寺となり大澤山実蔵院その跡を継ぐ)を別当寺として、神事をつかさどらせてきたものという。(旧城内字外城に鎮座する天満宮も、興胤が太宰府天神を勧請したものという。)
御祭神は、誉田別命(ほんだわけのみこと 即ち応神天皇)である。往時、八幡山と呼ばれたこの地は、城郭の西北に位置し、印旛沼を望み風光明美,社叢(しゃそう)すこぶる広く老松・古杉・大楠のうっそうとした静粛の中に、森厳な雰囲気が漂い、臼井氏歴代の城主の尊崇厚く、出陣の折には、必ず社頭で盛大な戦勝祈願が行われたという。明治以降は、郷社として村民の崇敬を集め、初詣・宮参り・厄除け・例祭・出兵兵士の歓送迎など、地元の人々の生活に深く関わり、現在も文教・殖産興業・農業守護の神として近郷の信仰を集めている。
本殿の左側には、興胤が宇佐から持ち帰り、神霊の来格を祈って植えたと伝えられている楠の若木がめぐり三丈余の巨大な老楠となり、江戸時代成田街道の名所の一つになっていたが、枯死して、今はその根幹がご神木として保存されている。
八幡社の近くには、臼井が幕府の旗本領であったころ、この地の地頭となった川口茂右衛門宗重の墓がある。
川口氏は、『寛政譜』によると、桓武平氏高棟王の流れをくむ。伊賀国より美濃国川口邑(むら)に移住し、慶長十一年(1606)宗勝のとき、印旛・葛飾二郡頽二千五百石を知行した。宗重は宗勝の三男で、慶長十七年、父の遺領の内臼井五百石を受け継いだ。
宗重一族は、臼井八幡社に対する尊崇の念があつく、永久祭祀(さいし)の資や神剣・石燈篭などを寄進している。
宗重の墓の隣りの凹地には、四囲に枝葉を伸ばした、大きな稲荷祠のご神木,榧(かや)の雄株があり、佐倉市の市天然記念物に指定されている。
八幡社のご神木
臼井の大楠(成田街道の名物)
八幡社の社前には、めぐり三丈(1丈3m)余りの楠の根幹が御神木として保存されている。これは、臼井輿胤が臼井城に復し、八幡社を創建した際に、宇佐八幡より自ら持ち帰った楠の小枝を地に突き刺して「もし、この楠が生きて枝葉を生じたならば、神霊来りて加護を垂れ給う証としよう」と言ったその小枝が根付き成長したものと伝えられている。往時その枝は、天高く聳え、あたかも臼井氏の勢力を象徴しているかのようであったという。また、八幡社裏の山王社のそばには、めぐり五丈八尺余りの鬱蒼たる大楠があり、東へ九尺ばかり隔てて、めぐり一条余りの楠とで枝を以って連なり、天然の門状をなしていた。その幹枝は、沼上に聳えて、天を覆い下枝を垂れて一奇勝となっていた。この楠も同じくこの時に植えられたものという。この大楠の洞には大蛇が棲み、時々人を捕まえては食べていたという。九右衛門を呑もうとしていた大蛇である。この大蛇は、何者かに退治され、その皮が、実蔵院にあったと伝えられている。山王社の大楠は,嘉永六年正月(1854)の大雪を受け文久元年(1861)に至ってついに枯れてしまった。(明治二二年には里人により伐採され、樟脳の材料になったという。)江戸時代には、成田街道の名所、臼井のシンボルとなっていたが今では『利根河図志』『成田名所図会』の挿絵から往時を偲ぶのみである。
今より広い八幡社の境内地にも老松、古杉とともに20本とも50本とも言われる大楠が生い茂り大樹林をなしていたというが、維新以後わずかな境内を残して官有となり、その後民有となるも古株老幹は従らに伐採されて、社殿を中心とした鎮守の森のほかはその影をとどめていない。
九右衛門さんと白馬
八幡社の裏山王社側には、めぐり五丈余の大楠があり、その枝は沼の上に突き出していた。夏のある日、九右衛門という漁師がこの大枝の下で暑さを避けて船梁を枕に昼寝をしていた。半時は寝込んだであろう、夢に白髪の気品の高い老人が現れ、「九右衛門・九右衛門」と呼ぶ。その声に、ふと目を覚ませば、頭上の大枝には口をあけて今にも飛びかからんばかりの大蛇、無我夢中で船を漕ぎ九死に一生を得た。九右衛門つらつら思うにあの白髪の老人こそ八幡様の化身であったろう・・・いやそれにちがいない有難いことだと感激し、家財道具を売り払い八幡様の一番好きだという立派な白馬を奉納した。それから八幡社の祭礼には、いつも白馬が神輿の先頭に担ぎ出され、町内を練り歩いたという。今も何代目かの白馬が社殿に安置されている。
[参考文献]
○ 臼井文化懇話会 うすい 第12号 臼井の社寺 (7) 臼井八幡社
○ 臼井史話散歩(山口健男)
○ 郷土史とのふれあい、臼井と関わりのある社寺・人々(中村正)
○ 千葉県印旛郡誌
○ たんたん山佐倉に伝わる話(佐倉市史編さん委員会)
○臼井宿回顧(佐倉伝説めぐりの会)